メインテーマ・第2幕
2022年 日本プロ野球ペナントレースを語る 2022/12/02(2022/10/05 コラム書き始め)
|
|
|
監督新任会見で、「優勝なんか目指しません!」と断言、しかも「監督とは呼ぶな、”
BIGBOSS”でお願いします」だとさ。あと、「優勝なんか一切目指さない!」なんかも言っていま
し た。何を言っても、何をやっても許される聖域球団に似ています。
オイラは1963年生まれ。野球が好きになって、少年野球チームに入って、プロ野球も観るよう
になったのは10歳の頃。当時1973年といえば「川上哲治」監督の下、「読売巨人軍」はV9を達
成する。9年連続でリーグ優勝ですから、それはそれは現代では想像もつかない一強王国。誰
もが「V10」を期待した1974年、与那嶺監督率いる中日ドラゴンズに優勝をさらわれ、長嶋が現
役を引退し、あの華々しい引退セレモニー。だからオイラは長嶋の現役時代は晩期しか知りま
せん。ミスターは、お世辞にも少年野球の手本なんかにはならないプレーヤーでした。例えば、
悪球打ち。今のプレーヤーが、明かなクソボール球に手を出したら何を言われるか分かったも
のではありません。ミスターは、「スーッと来た球をガーンと打つ!」という自身の表現で説明し
て いましたが、意味が全く解かりませんでした。俗に言う「野生の勘」と言われる所以でしたが、
チ ーム・プレーで個人の勘なんかで勝負されては迷惑千万な話です。なんか、三振した時の空
振 りも異常でした。ヘルメットを落としてまで体をグニャグニャに曲げて、ワザとらしい派手な演
技 でした。守備では、サードのポジションなのに、ショートゴロをよく捌いていました。噂では、セ
カン ドゴロも取りに行った事があるとか。
「記録よりも記憶に残る名選手」って、現代のスポーツ界じゃ絶対にあり得ない聖域です。純
粋に勝ち負けと記録で良いはずですし、記録を持ってる選手は名選手で名が通っています。プ
ロのスポーツにピエロは要らないのに、「BIGBOSS」のふるまいはミスターに続く、ピエロの再
来 なのでしょうか。
このように、晩期のミスターは、お世辞にも少年たちの憧れではありませんでした。天覧試合
を観た世代は別として、魅せる野球を演じるピエロなんかより、地味に格好いい選手が巨人軍
には沢山居ました。因みに、プロ野球史上唯一の天覧試合が1959年。大相撲じゃ頻繁な天覧
ですが、何故プロ野球は以降行われないのでしょう? そんな天覧試合でサヨナラ・ホームラン
を放ったミスターですが、「ミスタープロ野球」と呼ばれる所以はたった一夜のこれだけ? 余談
はさておき、当時、好きな球団の野球帽の横に、数字のプリントを貼るのが流行ってまして、さ
すがに「1」なんて恐れ多くてみんな敬遠しましたが、「7」か「8」あたりが無難な人気でした。「3」
も、「いかにも!」って感じで、こんな番号を着けて学校行ったら、それこそイジメの対象になり
ま した。オイラが着けていた番号は「45」、1973年当時のこの背番号は「小川邦和」投手。カッコ
良 かったんだ、オーバー・スローが本格・主流の投手陣にあって、小川はサイドスロー。生涯成
績 はパッとしない投手でしたが、シーズンによっては大活躍でした。
1972年と1973年のスタメンを挙げてみましょう。
1972年 1(左) 高田繁、2(中) 柴田勲、3(一) 王貞治、4(三) 長嶋茂雄、5(右) 末次民夫、6
(遊) 黒江透修、7(二) 土井正三、8(捕) 森昌彦、9(投) 堀内恒夫、(投) 菅原勝矢。
1973年 1(中) 柴田勲、2(二) 土井正三、3(三) 長嶋茂雄、4(一) 王貞治、5(左) 高田繁、6
(右) 末次民夫、7(遊) 黒江透修、8(捕) 森昌彦、9(投) 高橋一三、(投) 倉田誠。 この1973年
のリーグ優勝がV9達成の年です。解せないのは、1972年まで王が3番でミスターが4番だった
事。俗にいう「ON砲」です。「NO砲」なら納得いきますが、多くの人が腑に落ちないと思っていた
事でしょうが、考えようはあります。川上監督が、少年たちに王さんのホームランを多く見せた
か ったからと言われています。そして、王さんの敬遠を防ぐ為でもありました。これなら解せな
かっ た打順の怪も納得です。決して、王さんよりチャンスに強い点を認められていた訳ではな
いんで すね。
それにしても、当時のスタメンは凄い顔ぶれです。当時は監督はじめ、荒川博・藤田元司・牧
野・国松コーチらが選手を育てたんです。最近の聖域球団のフロント・首脳陣のミスターや原、
桑田、宮本あたりに爪の垢煎じて飲ませてやりたいですね。
コーチと言えば、来シーズン聖域球団の一軍打撃コーチに「デーブ大久保」が就任しました。
かつて、菊池雄星をひっぱたいて他球団をクビになった男です。聖域球団ゆえ、好きですよ
ね、 この手の人脈確保が。何年か前には、やはり暴力事件を起こした現役選手を出場停止
後、トレ ードで獲得しました。何をやっても聖域で許される典型例です。
晩年のミスターしか知らない世代には、非常に無様(ぶざま)なミスターこと長嶋ですが、無様
な姿はまだまだあります。「V9」まで達成した巨人軍が、「V10」を目指した1974年シーズンをゲ
ーム差 0 の 2 位で終え、ミスターのあの引退セレモニー。オイラ世代は、ミスターさえ代打要
員 やスタメンを外れれば優勝出来たハズだと信じています。そして、川上哲治氏とチェンジした
翌 年の監督就任。ミスターは巨人軍をセリーグ最下位に導いてくれました。どん底を味わった
巨人 軍ですが、後にも先にも最下位はこの年だけじゃないかな? 子どもながら思い感じたけ
ど、あ の時のミスターは非常に惨めでした。天覧試合の時だけサヨナラ打って印象に残ってい
るなら、 リーグ最下位に導いた年も記憶に残せばいいのに。
オイラが生まれた頃(1963年)の日本プロ野球と言えば、ただ単に勝った負けたの星取り戦
の 職業野球で、母校愛豊かな6大学野球の方が盛り上がっていたそうです。そういえば、現代
でも 駅伝やラグビーなんかは、プロよりも学生の方がよっぽど面白いです。そんな日本のプロ
野球 を、毎夜、ゴールデンタイムに放映するまで人気を集めたのが正力オーナー。聖域球団
のオー ナーはその後、1989年に「渡辺恒雄」に継がれました。ナベツネ自身が言っているのだ
から間 違いないですが、独裁者です。彼の考えにはだーれも口出しできません。習近平・プー
チンや北 の独裁者と全く同じです。
江川が入団する頃までは、オイラも「読売巨人軍」が好きでした。江川卓も大好きです。当時
のエースと交換したのだから、巨人軍だって得ばかりはしてないし、「空白の一日」をはじめ、あ
の時は凄い騒ぎになりましたね、オイラ高校1年の時でした。巨人軍は、「セ・リーグを抜け
る!」 とまで言い出して意地を張りました。江川も、生涯成績がパッとせず、記憶には残るプレ
ーヤー ですが、「ミスター」とは違ってピエロでないから好きです。よく鼻血出していましたし、ピ
ッチャ ー・ライナーをよけていましたね。サダ坊、西本聖との3本柱は、当時最強の投手陣でし
た。
ところが、1981年のシーズンに「原 辰徳」が入団してきて、徐々に面白くなくなってきました。
入 団時のドラフト1位指名も、くじで当たって正々堂々の入団で、江川の時とは大違いでした。
そん な期待とは裏腹で、生涯成績もパッとしなければ、記憶にも全く残らないプレーヤーに終り
まし た。強いて言えば、大チャンスに内野フライばかり。しかも、差し込まれたセカンド・フライか
ファ ースト・フライ。そんな原が入団したシーズンも、ミスターが監督を藤田元司氏に引き継いだ
ので 難なく優勝。翌1982年は最終戦までもつれて 0.5 差で 2 位。今でも思いますが、原がチャ
ンス で打ってたら優勝してました。
1984年からは、我が敬愛する世界の王さんが巨人軍の監督を勤めました。そんな王さんで
も、5年しか持たず、そのうち1回だけのリーグ優勝でした。それにしても、しっくりこない点は「ト
ロイカ体制」だったこと。何でだろう?
当時の助っ人外人たちも、文字通りの「助っ人」で大活躍でした。ホワイト、スミス、クロマティ。
そして、オイラとタメや同年代選手たちの活躍は嬉しかったです。例えば50番トリオとか、槇
原、斎藤雅樹の活躍もあって、まだまだ巨人軍から目が離せない日々が続いたのですがねえ。
1993年シーズンから、またピエロのミスターが戻って来てしまいました。落合なんか入れて、
清 原なんかも入れて落合は放出だもん、聖域球団が牙を剥き出して来た瞬間です。オーナー
も独 裁者のナベツネに。そんな球団で、監督なんてやり手がいる訳が無い。堀内も高橋由伸
も、辞 任する時のあの清々した顔。
オイラが最後にプロ野球を外野席で観たのは大学生の時。あの頃までは良かったですよ、
「球場で観るなら外野席」ってね。ホームランの打球が徐々に近づいてきて、凄い迫力でした。
と ころが現代の外野席はカルト集団、そう、まるでマスゲーム。味方の攻撃回になると、「スク
ッ」と 立って。「勝って来るぞとたくましく!」の軍歌みたいな応援歌を熱唱する。コロナ禍の先
日、数 十年ぶりにプロ野球のテレビ中継を観たら、声援が出来ないものだから、テレビ局が聖
域球団 の選手毎の応援歌をかけていやがった。もう、ホントに戦時下のプロパガンダ的な軍歌
です。 敵さんの攻撃になると止めるので、聖域球団の攻撃の時はミュートにして耳を塞いでい
ました。 ああやって、歌って、聞いて、それを繰り返して、洗礼されちゃうんでしょうね。旧の教団
みたい です。まあ、応援席なんだから仕方ないけど、高校野球や社会人野球みたいに、もっと
料金の 高い内野席でやればいいのに。オーストラリア留学中、オージー・ルールのラグビー・プ
ロチー ムが町にあって、スタジアムで観戦した事があるけど、勿論熱狂的な地元ファンが多い
ですが、 誰もがリラックスして気持ちよく観戦できる雰囲気でした。米大リーグ中継を観てたっ
て、全く同 じ状況で羨ましい限りです。ところが、韓国旅行の際に、ホテル部屋のテレビで韓国
プロ野球の 生中継を観た事がありますが、日本プロ野球と同じく、やかましい応援合戦でした。
何も、日本 の悪い文化なんかを真似する事ないのに。
聖域球団に限ったファンの話に戻します。結局、問題はファンなんです。大した記録も保持せ
ず、選手も育てられず、天覧試合の記憶だけ。それでも神的な存在のミスター。もう、とにかく
ハ テナ? なのが、国民栄誉賞。暗殺された安倍元総理が松井秀樹と共に与えたのですが、そ
れ まで立派だった賞の価値が一気に下がってしまいました。そんなミスターも、独裁者のナベツ
ネ も、もうヨイヨイですが、居なくなれば変わるのかな? いや、ピエロを演じたミスターを知る世
代 が一掃されない限り、変わらないでしょうね。ただ、聖域球団の聖域さが取り除かれた時は、
プ ロ野球事態が盛り上がらないかもしれません。でも、オイラはその方が良いかな? 「ピエロ
の 記憶が消えるまで、聖域球団は不滅です」。
2022年10月5日に書き始めたコラムですが、気付けば11月も、もう終り。さっさと書き上げてア
ップしないと、他のコラムも書きたいし、年賀状に載せるコラムも書きたいし・・・。
ということで、残念ながら聖域球団の最下位の夢は断ち切られました。僅か 2.5 差でしたが、
結果は結果ですので、受け入れます。ミスターがかつて最下位に導いて以来のどん底か!と、
期待していた輩も多い事かと思いますが、本当に残念です。原に、あのミスターの惨めさを味
わ せてやりたかったですね。4月のシーズン開始早々、聖域球団の首位独走状態。まさか、シ
リー ズ終盤にこのようなコラムを書くとは夢にも思いませんでした。一方で、パリーグのビッグ・
ボス は最下位で一安心ですが、本当は最下位どうしで「日本最下位シリーズ」を戦わせてやり
たかっ たですよね。
|
|
|
|