メインテーマ・第2幕
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正月恒例の「東京箱根間往復大学駅伝競走」。にわかなファンが何を語ろうが、箱根駅伝に
は古い歴史がある。次回(2023年1月2日・3日)が第99回であるから、第1回は約100年前だ。
当 時の箱根駅伝を知る先輩方には、当然尊敬の念に堪えませんが、オイラの箱根駅伝との出
逢 いは昭和50年(1975年)でした。
オイラの思い出話には、昭和48年〜昭和58年(1973年〜1983年)がよく登場します。オイラの
実年齢で10歳〜20歳の少年期から青春時代ですね。この年の正月3日に、近所というか、お向
かいの一家に「横浜ドリームランド」のスケートを誘われまして、帰りに「江ノ島に寄ってみよ
う!」と、車移動中の事でした。何やら周囲に異変が。「エッホ、エッホ、エッホ、エッホ」って、拡
声器を通した大声が鳴り響き、そして幟を立てたジープの車列が反対車線を占領して通り過ぎ
て行きます。何! 過激派のデモ? 街宣?
「箱根駅伝」も「駅伝」も当時は全く知らない言葉でした。勿論、テレビでの放映など皆無でし
た し、ニュースでも映像は流れませんでした。この日の事は忘れて、9年の月日が経ちます。
大学に入学すると、わが校が箱根駅伝に出場する事実を知ります。「街頭応援に行きましょ
う!」と、自校の旗を配布していたので、「近所なので、一丁行って観るか!」となります。この
年 から4年間、我が家では初詣に、藤沢で街頭応援をし、その後江ノ島神社でお参り、そして
「貝 作」での食事が恒例となりました。決まって街頭で応援した場所は、小田急線・本鵠沼駅か
ら徒 歩10分の藤沢警察署前。箱根駅伝の3区で、おそらく我が家から最短でしょう? 午前10:
30過 ぎの通過で、当時と今もこの時間は変わっていません。今みたいに、街頭は2重・3重の人
垣で はなく、燗酒などを飲みながら静かに観戦できました。テレビ中継は勿論なく、1月3日昼に
1区 〜9区のダイジェストが「東京12チャンネル」で放映され、大手町のゴール地点だけ生放送
でし た。
藤沢警察署前での初・街頭応援の話に戻ります。新聞で確認した予想通過時刻になると、拡
声器越しのあの大声が聴こえてきました。「エッホ、エッホ、エッホ、エッホ」って。幟を立てたジ
ープの前にはランナーが。オイラは大学の布製の旗を振って声援を送り、ジープに向かって旗
を広げてアピールしました。監督は声援中なので気付いてくれませんでしたが、もう一人の大学
関係者がコクリと頷いてくれました。嬉しかったですねえ。あの頃は、今みたいにマンモス校に
よ る集団陣地争奪戦など無かったので、母校独自の旗で応援など無かったのです。因みに、
読売 新聞の紙製の旗は当時も現地で配られていました。観戦後のゴミ問題の為、昨今はビニ
ール 製でちぎれません。
現地での街頭応援で、一番気になるのが順位とタイム差。テレビのライブ中継も無い時代で
すから、当然ネットなんかもある訳が無く、もっぱらトランジスタ・ラジオでした。オイラはイヤホ
ン で聴いていましたが、スピーカー大音量でライブ配信してくれるオジサンもいました。
出場校数は15校で、シード権獲得は上位9校、予選会は6校と、現在よりも6校少ない大会で
し た。それでも、各選手に監督が拡声器を用いて声援を送る伴走のジープが付き、車列はか
なり 長かったです。順位が変わった時の、伴走ジープの入れ替えも迫力あって面白かったです
ね。 抜かれる方のジープは遠慮がちになった感じで。この伴走ジープも、日テレでテレビ中継
が始ま ると、箱根駅伝の人気が高まり、街頭応援の観戦者数も増え、交通事情の影響で廃止
されてし まいました。オイラが言う、「にわか駅伝ファン」の輩が増えた1988年〜1990年の出来
事です。 監督の声援や伴走ジープの後押しが無くなると、ランナーの棄権が増加し、現在は非
常に制限 された形で監督による声援が行える運営管理車があります。そういえば一時、監督ら
が一台の バスに乗って移動する年もありました。少年〜青春にかけて、オイラの箱根駅伝の想
い出と言 って、一番強力な印象はやはり監督の伴走です。メガホン(拡声器)で叫ぶ掛け声の
「エッホ、エ ッホ、エッホ、エッホ、エッホ・・・」や、走っている選手への精神論の丸聞こえは面白
かったで す。
一方で、昨今の箱根駅伝の街頭応援は、「歩道から出ないで!」のパトカーや白バイのアナ
ウ ンスばかり。そして、ただ、選手が次々に通り過ぎて行くのを旗振って観るばかりです。金持
ち のマンモス校は、沿道を陣取って大勢の応援団で選手を励まします。先導する白バイやパト
カ ーがあれば、一番後方を走る警察車両もあります。「これで全ての大学が通過しました。街
頭で の応援をありがとうございました」と、最後のランナーも通過した旨を沿道にスピーカーか
らエン ドレスでアナウンスして走行します。最終ランナーは、このアナウンスをビリから抜け出せ
ない限 り、永遠に強制的に聞かされます。これが、精神的にかなり屈辱感を与えるそうです。
昨今の箱根駅伝で、テレビの完全中継といえば、オイラの最も好きな銘柄であるサッポロ・ビ
ールがスポンサーですが、首の長い動物名の銘柄工場の看板は絶対に映せないです。先頭
が 生麦付近に到達すると、突然「箱根駅伝・今昔物語」のドキュメント番組が差し込まれます。
先程も書いた通り、当時の予選会の通過席は僅か6校でした。これは厳しかったです。でも、
厳しかったからこそ、本戦でのシード権獲得の凌ぎが激しくて盛り上がったのです。昨今では、
「どうせ予選会は通過できる!」と楽観傾向で、本戦も予選会も盛り上がらなくなってしまいまし
た。予選会といえば、昔は大井ふ頭で行われていました。当然、今みたいにテレビの生中継な
どなく、翌日の新聞紙上でないと結果が分からなかった気がします。
オイラの少年〜青春時代は、大の長距離走嫌い。マラソン大会や長距離走の体育授業をサ
ボって自動二輪の免許を取りに行った旨は、2019年の年賀状コラムに書いた通りです。密か
に、箱根駅伝のランナー達には、「苦しく走って、何が楽しいの?」っていう気持ちを抱いていま
した。そんなオイラが、今では 5km のジョギングが日課となり、箱根駅伝の1区間相当くらいは
簡単に走れるようになりました。タイムは別の話です、当たり前です、倍くらいかかります。そし
て、選手たちの気持ちにも一歩近づけた気がしています。今月は「花の2区」と呼ばれる後半部
分約 10q を実際に走ってみました。正直な感想として、権太坂は意外に短く緩傾斜でした。あ
くまでも、駅伝はチームで走る長距離走ですから、クロスカントリー走の競技とは違って平坦な
コ ースが選ばれるハズです。ただ、5区・6区は異常です。単純にインカレ等の記録では計れな
い 箱根駅伝の面白さがあります。Y新聞さんのご厚意で、「箱根ユネッサン」の招待券を頂戴い
た しました。来年1月に、箱根湯本駅〜ユネッサンまで、5区山登りの一部を走ってみようかと考
え ています。
最近では、チーム力格差のマンネリに飽きた箱根駅伝よりも、注目されつつある大学対抗女
子駅伝も観る楽しみがあります。男女共に駅伝が強い大学こそ、日本一だと思います。男女混
合の大会って始まらないかな? カネに糸目をつけないマンモス校は躍起になるだろうな。そう
いえば、今回の思い出話の舞台となった年代に、都道府県対抗の凄い駅伝がありました。「青
東駅伝」については、後日コラムを掲載します。
箱根駅伝は大学の知名度アップを図る絶好の機会なのでしょうか? 最近では、陸上部では
なく、「競争部」「駅伝部」なるトラック以外の中長距離に特化した名称の部があるのに驚きま
す。そして、20校という多大学でのレースで盛り上がりに欠ける一面も出てきました。各大学の
上位10選手の持ちタイムで簡単に順位は予想され、大差で負けてる大学はレース後半で盛り
返せません。トラック・タイムだけでは選手の実力を測り知れず、監督の伴走次第で順位が変
動する面白い箱根駅伝が、ただただ懐かしいです。
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